暇さえあれば映画が見たいスプーン二年生による、
映画評論ブログ#5です。
よろしければお付き合いください。
あっという間に2021年も過ぎてしまったが、昨年見た映画は全部で400本だった。思い返すとケリー・ライカート作品だったり、佐藤泰志原作の『草の響き』、長年見たいと思っていたヴェルナー・ヘルツォークの『緑のアリが夢みるところ』など心に残る作品に出会えたことは良かったし、また、高階匠さんという方の短編映画がどれも面白く、今後新しく作品を撮らないか楽しみも増えた。そして『呪いのビデオ』を日々せっせと見たのは良い思い出である。
今回は、小津安二郎の『非常線の女』について書こうと思います。昨年の秋頃からまた映画の学術本をいくつか読み始めるようになり、そこで出てきたので。
これは小津の初期の作品で、尚且つまだサイレントの時期のもので、若かりし田中絹代が出ているわけだが、絹代は、昼は丸の内でOL(タイピスト)として働き、夜はギャング一味として活躍する話である(この時期の小津はギャング映画を数本撮っていて、有名どころの『秋刀魚の味』だったり『お早う』などといった後期に多く見られる家族をテーマにした作品からは考えられない)。
絹代が洋服を着て拳銃を持ったりする姿はあまりにミスマッチで違和感を感じるが、そこは置いておくとする(しかし、終盤に絹代が「もうギャングなんてやめましょうよ」と恋人にせがんで、二人の暮らす部屋のストーブに火をつけるカットなどはいかにも後期の小津をめちゃくちゃに感じる)。先日読んだ本では『非常線の女』を引き合いに映画の誕生初期は帽子が都会の象徴として使われていたということが書かれていたが、私が本作を見て思ったのは後の章で違う映画を例に語られていた「都市をいかに撮影するか—またその難しさ」についてだ。
『非常線の女』は1933年の作品である。1930年代でさえも都心部における撮影は厳しかったということが記されていて、それは黒沢清も同じことを言っていたので大体現在も続いていると考えて良いだろう。思い返せば渋谷のスクランブル交差点などを撮った映画というのは意外と少ない(大抵が許可をとるのも一苦労、許可が取れたとしてもそこでは結構なお金を支払わないといけないらしい。そもそもただでさえ人通りが多く、そういったことを回避するためにビルの上から行き交う人々を映すことも。お金の面でも規定的面でも、都心を自由に撮影することは難しい。)どの時代でも「当時の東京」というのを無垢なまま切り取るのは難しく、予算の少ない映画などは許可を取らず撮影して警察に追いかけられる羽目になる。このような理由から足利に渋谷のスクランブル交差点のオープンセットができたということは自然な流れに感じる。ただ、自然な流れなのだが、これに違和感を感じるのである。「東京」という設定である邦画は多くあるが、実際撮影されたのは千葉だったり、埼玉であることが多いからだ。休みなく開発されていく渋谷で撮影することが難しい理由もわかるが、時代に合わせてつねに変化していくシンボル的な場所であるからこそ、その時代にしか存在しない街並みを記録できるようにすべきなのではと思うこともある。
そもそも『非常線の女』が製作された頃はまだ東京=渋谷ではなかっただろうし(清水宏による『都会の横顔』(1953)では当時の銀座の街並みが軽快に映され、50年代における都会=銀座ということがわかる)、東京のイメージというのはどこの街なのかといった面での移り変わりも面白い。半世紀以上前の映画でも現在の映画でもその監督が都市をどのように映し描き出すのか、そういった面に着目するのも興味深いと思った。昔の映画ばかり例に出しているが、そういった意味で私がいま東京のイメージを切り取るのが面白いと思い浮かべる監督は瀬田なつきだ。『ジオラマボーイ・パノラマガール』(2020)で映される雑多な夜の渋谷と、辰巳周辺に立ち並ぶ高層マンションの数々はとても空虚に感じ、印象的だった。
しかし、元はと言えばカメラはそこにあるものをそのまま撮る記録装置として使われていたはずなのに(それはもはやカメラを回すものが映したくないものも映ってしまう)、商業が関わってくると虚構を映すことになるのではないか。だからこそCGやアニメーションが増えていくのもよくわかる。そもそも街は一体誰のものなのか、たまにわからなくなるのだ。
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⼤学院ではアッバス・キアロスタミの研究をしていました。たまに批評誌サイトに寄稿したりしています。 ⾒た映画のなかから考えたことなどをこれから少しずつ書いていこうと思います。
⼆井