<以下すべて個人の意見と解釈です。>
イスラム主義組織タリバンがアフガニスタンを制圧してから早くも4ヶ月。
タリバンの復権に至るまで何があったのかが気になり、
最近では時間がある時に中東と宗教の歴史を改めて勉強し直している。
ヨーロッパ・米国が関わり始めてから歴史は更に複雑になってしまうが、
そもそも平和を説くイスラム教・キリスト教・ユダヤ教の発祥の地で、
なぜ争いが絶えないのだろうか?
色々と調べているうちに、ふとある映画を思い出した。
それはドュニ・ヴィルヌーヴ監督の『灼熱の魂』(2010)。
死んだ母ナワルからの遺言をきっかけに、父と兄の存在を知る双子の姉弟ジャンヌとシモン。
どこにいるかも生きているかも分からない父と兄に宛てられた母からの手紙を渡すべく、
カナダで生まれ育った双子は母の祖国を訪ねることを決意し中東へ向かう。
劇中では架空の都市名が使われ母の祖国は示されないが、
舞台は明らかに75〜90年にかけて内戦が続いていたレバノン。
かなり複雑な内戦だが、簡単に言うと当時政治的に権力を持っていたキリスト教派と
西洋的な政府に反対するアラブ・左翼グループにより繰り広げられた、
何万人もの罪のない国民が犠牲となった戦いだ。
『灼熱の魂』はその内戦をキリスト教信者である一般人のナワルの視点から描いている。
双子は父と兄の行方を辿るにつれ、内戦を必死に生き延びた
母の悲惨な過去を初めて知ることになる。
ナワルの目の前でキリスト教派が一般人を虐殺するシーンでは
本当に怒りと悲しみで震えが止まらなく、
カトリックとして生まれ育ってきた自分としてナワルの気持ちには
強く共感してしまった。
"DERESSA"
2021 / ポスカ・マーカー・紙 / 35.3cm x 25.2cm
淡々と内戦の残酷さを描いていく映画の中で最も印象に残ったのが
祖国にて自分たちの存在に至るまでの母の過去を知り、
姉弟ががむしゃらにプールで泳いでから無言で水中で抱き合うシーンだ。
“SARWAN JANAAN”
2021 / ポスカ・マーカー・紙 / 35.3cm x 25.2cm
彼らの必死に泳ぐ姿はまるで自分たちの存在に罪悪感を感じ
洗礼を求めているかのようで、
水中で抱き合う姿は母胎で慈悲を求めながらお互いを慰めているように見える。
たった1分ほどのシーンだが、そこには人間の脆さと、
その脆さから生まれる人間の醜さと美しさの両方が描かれている。
その人間の矛盾は宗教にもつながる。
無力だと感じる時に何かに縋りたいと思うのが人間の本能だと思う。
そしてその本能から生まれたのが宗教なのではないだろうか。
人間の脆さが神という存在を生み出し、
その神に認められるために善と悪という思想が生まれる。
一神教であるイスラム・キリスト・ユダヤ教では、
善を基準に生きれば平和に暮らせるはずであり、
それは同時に人間が本能的に持つ、弱いものを助け、
お互いを支え合う精神を象徴するものだと思う。
一方で、その善と悪という極端な考え方は物事を単純にカテゴライズしてしまい、
同時に神という権力的な存在により自分の行動は悪ではないという言い訳も作れる。
そして何を「善」として何を「悪」とするかは人によって解釈が違い、
自分の「善」を守り抜くために過激になってしまい、
「争い」へと繋がってしまうのではないだろうか。
『灼熱の魂』の舞台であるレバノンでも
人の命を犠牲にしてまで権力を守ろうとする政府や部外者から
自分たちの平和な生活を取り戻すために立ち上がった国民が過激派になってしまい、
その行動が悪循環へと走りいくつもの戦争を起こしてきた。
小さなスケールに置きかえてみても、
自分が悪くないと思った時に何か、誰かのせいにすることは簡単だと思う。
ただしその極端な考え方は、自分の行為に対しての疑問を殺してしまうことにもなり得る。
そこで自分の中で平和を見つけ出せたとしても、
果たして自分以外の人にとってもそれを平和と呼べるのだろうか?
中東以外でも、今の世の中を見ていると
この善と悪という考え方により、人間の本来持つ醜さが露わになり
それによって様々な形の争いが繰り広げられている気がする。
ただ、プールで思わずお互いを抱きしめあった双子のように
善と悪を決めつける前にまずお互いを助け合い、分かち合えれば
人間の持つ優しさという本能によって「平和」は保てるはずだ。
好きな映画のワンシーンを好きなように描きながら
映像のことについて考える、気まぐれなお絵かきメモです。
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